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エビータ

Unforgotten, forever loved and adored.

1996 · 129 min · 歴史
6.1 控えめ
歴史 ドラマ

アルゼンチンの田舎に生まれたエバは15歳の時、タンゴ歌手の愛人となって貧しかった家を抜け出した。ブエノスアイレスに住みついた彼女は次々とパトロンを変え、ラジオの仕事から女優、国民的スターへと成長する。エバはやがて、陸軍大佐ペロンと知り合った。彼女は民衆にラジオで呼びかけ、投獄されてしまった彼を助け出し、“アルゼンチンの聖母エビータ”への道を歩き出す……。

原題
Evita
製作国
🇺🇸 アメリカ合衆国
製作年
1996

豆知識と制作秘話

/
企画

映画化権は1976年のコンセプトアルバム発表後から15年以上にわたり複数の映画会社の間を転々とし、企画が難航し続けた。1993年にプロデューサーのロバート・スティグウッドがアンドリュー・G・ヴァイナに権利を売却し、ようやく実現に向かった。

キャスト

バーブラ・ストライサンドが恋人ジョン・ピーターズの後押しで主演候補に挙がったが、舞台版を観て気に入らなかったため本人が興味を示さなかった。

キャスト

監督ケン・ラッセル時代にはライザ・ミネリがエバ役の有力候補となり、金髪のウィッグと専用ドレスでスクリーンテストを受けたが、プロデューサー側は舞台版初代エバ役のエレイン・ペイジを推していた。ラッセルはミネリを起用しないなら降板すると主張し、結局解任された。

キャスト

1986年、マドンナは1940年代風のドレスとヘアスタイルでロバート・スティグウッドのオフィスを訪れ、エバ役への熱意をアピールした。スティグウッドは「彼女はまさに適役だ」と感銘を受けた。

キャスト

オリバー・ストーンが監督だった時期にはミシェル・ファイファーがエバ役に決まっていたが、第二子を妊娠したため降板した。またメリル・ストリープも有力候補となり、1週間でスコア全体を覚えるほどの歌唱力を見せたが、契約交渉が難航し降板した。

キャスト

マドンナは1994年12月、自身のミュージックビデオ「Take a Bow」と4ページに及ぶ手紙を監督アラン・パーカーに送り、エバ役への強い意欲と本気度を伝えた。

撮影

アルゼンチンでの撮影中、ペロン党員らが映画製作に抗議運動を展開し、エバのイメージが損なわれることを懸念する反対デモが起こった。これに対抗する形でアルゼンチン政府自身が『Eva Perón: The True Story』という映画を製作した。

撮影

当初大統領官邸カサ・ロサダでの撮影許可が下りなかったため、製作陣はシェパートン・スタジオに官邸の複製セットを建設したが、撮影終盤にメネム大統領から許可が下り、実際のバルコニーで『Don't Cry for Me Argentina』の場面を4000人のエキストラを使って2日間かけて撮影した。

撮影

マドンナの衣装は85回の着替え、45足の靴、56組のイヤリング、39個の帽子、42種類のヘアスタイルに及び、この作品でマドンナは「映画で最も衣装替えをした俳優」としてギネス世界記録を達成した。

撮影

撮影は1996年2月8日から5月30日まで84日間にわたり、ブエノスアイレス、ブダペスト、シェパートン・スタジオの3拠点で行われた。

音楽

劇中歌「You Must Love Me」は撮影用に新たに書き下ろされた楽曲で、マドンナはエバをより同情的に描きたいとして歌詞の変更を強く求めたが、作詞のティム・ライスは応じなかった。

音楽

レコーディング初日、監督アラン・パーカーはこの日を「ブラック・マンデー」と呼び、ポピュラー音楽・映画・ミュージカルという異なる出自のスタッフが集まったことへの緊張感を語っている。マドンナも「Don't Cry for Me Argentina」をアンドリュー・ロイド=ウェバーの前で歌う際に「完全にダメだと思った」と振り返っている。

評価

2002年、『エビータ』はピョンヤン国際映画祭で上映された唯一のアメリカ映画となった。

評価

公開当時のアメリカでは、衣装デザイナーのペニー・ローズが手掛けたエバ風の衣装や髪型を模したファッションが流行した。

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